終活を法律面から考えてみる

いつごろから流行り出した言葉なのか分かりませんが、だいぶ定着してきた言葉ではあります。

終活(しゅうかつ)とは「人生の終わりのための活動」の略。人間が自らの死を意識して、人生の最期を迎えるための様々な準備や、そこに向けた人生の総括を意味する言葉である。

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まず、当職は、終活=エンディングノートのイメージが良くも悪くも付きすぎたと感じています。

エンディングノートとは、高齢者が人生の終末期に迎える死に備えて自身の希望を書き留めておくノート。
自身が死亡したときや、判断力・意思疎通能力の喪失を伴う病気にかかったときに希望する内容を記す。
書かれる事柄は特に決まっているわけではなく任意であるが、病気になったときの延命措置を望むか望まないか、自身に介護が必要になった際に希望すること、財産・貴重品に関する情報、葬儀に対する希望、相続に対する考え方、プロフィール・自分史、家系図などがある。

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自分の人生を自分の意思で締めくくるのはいいのですが、エンディングノートには「この項目が入っていないといけない」というルールがないらしく、それぞれの配布元によって、設けられている項目が異っているようです。葬儀社が配布しているエンディングノートは、葬儀に対する希望の項目だけがやたらと詳しかったりと、疑問に感じざるを得ないようなノートも散見されます。

特に危惧するのが、延命措置を望むか望まないかという項目と相続に対する考え方という項目です。

延命措置はいわゆる尊厳死の問題に関わってきます。現在の日本では、一定の支持はあるものの、法的に尊厳死(安楽死)は認められていません。そのため、危機的な状況で病院に搬送された場合、ドクターは全力を尽くして命を守ろうとするはずです。エンディングノートを記載した本人が重篤な状況にあって、どこまでが「過剰な延命措置」でどこからがそうでないのか、誰が判断を下せるのでしょうか。親族の一部は延命措置を望み、他の一部は尊厳死を望んだ場合、どちらの意思が正当と言えるのでしょうか。そのようなことを考え出すと、なかなか実効性には乏しいのかなと感じます。

相続に対する考え方については、法的には「遺言のようなもの」に該当するものと思われます。しかし、現状の民法では、遺言の方式が決められています。遺言をした本人が亡くなった後に「この遺言はこういうことで間違いないですよね?」と確認することはできないので、形式的な方式を定めることによって、その法的効力を担保するためです。ですから「遺言はエンディングノートでちゃんと済ませた」と安心している方がいらっしゃるとすれば、法的に有効な遺言となっているのか不安に感じます。もちろん、幾多の判例で、極力遺言者の意思を汲み取る努力がされていますので、裁判すれば認められるとは思いますが、それは、遺言者の希望ではない気がします。また、あまり知られていませんが、遺言できる内容も決まっています。例えば「長男は、障害のある末っ子の面倒をみるように」と遺言したとしても、遺言者の希望としては理解できますが、遺言のとおり長男に面倒をみることを強制させることはできません。遺言できる内容ではないからです。いわゆる「負担付遺言」により、面倒をみなければ指定された相続財産を相続できないという形で間接的に強制することは不可能ではありませんが、長男が面倒をみなければ、指定された相続財産の行き先が宙に浮くだけで、末っ子の面倒をみてくれる人が現れるわけではありません。

終活自体には大賛成なのですが、終活=エンディングノートに従えば大丈夫といった一部の雰囲気には注意が必要だと考えます。

ネットで自治体が終活産業を支援しているというニュースを見たことがありますが、専門家が関与してるんですかね?それとも、老後を自分らしく生きる活動の一環なのかな?